空白の描写

ダブルクロス・リプレイ―聖夜に鳴る鐘 Dynast (富士見文庫―富士見ドラゴンブック)
以前、とある絵画の美術展に行った時のこと。
いくら眺めてても飽きないということはありませんが基本的に美術館なんかに行くのは好きで、結構いろんなところに足を伸ばしているのですが…ふと、気付いたことがあります。
私は写実系の絵が好きなのですが、自分が感動する絵、完成度が高いと感じる絵を見てみると…表題になっている、最も大きく描かれているモチーフが必ずしも中心に位置しているわけではないと言うことです。
そして、そっと間をあけられた空白に描かれている小物、あるいは壁の陰影、そういったものが絵の存在感を際立たせています。
モチーフの形をなぞるだけにとどまらず、キャンバスの全てをその卓越した表現能力で埋め尽くすからこそ、「作品」として完成された美しさがあるのだと気付かされました。

絵画に限らず、物語にせよ、映像にせよ、「空白をいかに描写するか」で「作品」の完成度は大きく変わってきます。
TRPGに関してもそれは言えるのではないでしょうか?

たとえば、さまざまな英雄譚に語られる勇者たち。その物語は物々しいダンジョンやドラゴンとの決闘で収まることはなく、ヒロインとのラブロマンスや仲間との交流は決して忘れられないものです。
ダンジョンや戦場での活躍をモチーフとするならば、ラブロマンスや仲間との交流は空白に描かれたドラマである…とは考えられないでしょうか?

ここで一つ、例に出したいものがあります。
ダブルクロス公式リプレイの二巻となる「聖夜に鳴る鐘」の前編です。
このシナリオでGMは、隣のお姉さんを詳細に描写することでPL達に印象付け、「NPCの死」というありがちな状況にうまく感情移入させています。
これが、ただキャラクターシートに書いてあるだけのNPC機械的に「死亡しました」と告げるだけなら、それほど強い印象を与えることは出来なかったでしょう。
メインとなるシナリオとは直接係わり合うことのないNPCや日常の描写。そこから離れていくシーンを演出することで冒険心を、危機感を煽る事が出来るのです。

とはいえ、空白を埋めるのに熱中するあまり元のモチーフを汚してしまっては意味がありません。
コンベンションなどの「特定の時間内にすっきりとまとめる」ことが求められる場では、本編と関係のないシーンを延々演出し続けたらだれてしまうだけです。
程ほどに、モチーフを引き立てる絶妙なラインで……難しい話ですな。