TRPGに求める何か

ローズトゥロード リプレイ ソングシーカー (Role&Roll Books)
TRPGをプレイしていると、時たまこういう疑問にぶつかります。
「何が楽しいんだろう?」
それは自分自身への問いかけであったり、自分とはスタイルの違う人への疑問であったり、あるいは長い年月をかけて追及するべき命題であったり、さまざまな場面で姿を現します。

多分、答えは人それぞれで、何が正しいなんて決め付けようとすること自体がナンセンスなんだと思います。
ただ、その人それぞれの解答の中で、自分がまた考えさせられることがあったので、あえてそれを書き綴ってみようと思います。

私は元々物書きを目指していて、大学の国文科に入学し、中退して専門学校に入りました。
専門学校時代にTRPGに出会い、そちらの道を目指そうとするも、紆余曲折あって今ではコンシューマー中心のゲームプランナーの卵です。
物書きを目指すには、私にはとても致命的な欠点がありました。
それは、物語のプロットを作ることは出来るけれど、それを完成まで持っていく文章力がなかったのです。

だから私は、プロット(シナリオ)を提示して、他のPLとともに物語を完成させていく事が出来るTRPGが好きです。
「自身の創作欲求を満たすこと」
それが、私がTRPGに求める楽しさでした。

しかし、私は最近、一冊の本に出会いました。
小林正親先生の執筆するローズトゥロードリプレイ「ソングシーカー〜失われた歌を求めて〜」です。
プロのライターであり、TRPGデザイナーである小林先生が、TRPGがほとんど未経験である学生達を相手にプレイしたキャンペーンのリプレイです。
私は比較的涙腺が緩い方で、わざとらしいくらいにお膳立てされた「泣かせどころ」で素直に泣いてしまうような人間なので、今までの他のリプレイでも幾度となく泣いてきました。
しかし、私はこの「ソングシーカー」を読んで初めて、リプレイに「感動」を覚えたような気がします。

小林先生は割と、大人気ないというか、PCを本気で追い詰めて殺す気だったり、PCが敗北することで進展する物語を用意したりしています。
PLもある程度慣れた人であれば「なるほど、ここは負けておくところなんだな」と推測して、わざと降伏して捕虜になったりする事もあるでしょう。
しかし、そういったお約束に気付かない、毒されていない彼らは決して諦めません。
たとえそれが無茶であっても、結果が伴わなかったとしても、必死に足掻き続けます。

実際のセッションで、捕虜になって逃げ出すシナリオなのに最後まで捕まる事を拒否したために殺すしかなくなってしまうとか、イベントの進行上で必要な場面で食い下がるとか、「諦めない」という事は時折、深刻な被害をもたらします。
ルールの想定外のことで駄々をこねてつまみ出されるのだって、「諦めない」結果だと言えるかもしれません。
このリプレイでも、諦めずに足掻いた結果、用意していたシナリオが一切使えなくなって、キャンペーン中にGM交代などと言う商業誌史上初ではないかという事態に見舞われています。

だけど、思うんです。
TRPGで遊ぶ時、諦めることが惜しくなるくらい必死で遊んでいますか?と。

コンシューマのゲームで、一ヶ月とかそれ以上の間、少しずつレベルを上げて必死で育ててきたキャラクター達。
やっとの思いで辿り着いたラストダンジョン、ラスボスの強さに手に汗を握りながら「当たったら死ぬ、避けろ…回復間に合うか?アタッカーが死んだらジリ貧になる…」と必死に考えて、負けてもレベル上げを繰り返してリベンジして…と、真剣にプレイした覚えはありませんか?
そんな時、ボスに勝てないからって、それまでの苦労を全部捨てて諦めますか?

真剣さが伴ったセリフって、やっぱり、卓を囲んで見ているとわかります。
とりあえずこういうシーンだろって定型文的なセリフを吐いてる時と、そのキャラクターの、あるいはその背後にいるプレイヤーの、心からの感想として漏れるセリフは、聞いていても深みが違います。
自分がGMをしていて、演じたNPCに心からの憤りや同情を向けられた時など、ゾクゾクするほど楽しさを感じます。

私はこのリプレイを読んで、自分の求めていたTRPGが如何に内向的で、せっかくのTRPGをつまらなくしていたかと思い至りました。
プレイスタイルの事ではなく、心の持ちようとして。

TRPGの楽しさは人それぞれで、それを語るのはナンセンスかもしれません。
どんな楽しみ方を目指すのも構いませんが、一つだけ。
TRPGと、真剣に向かい合ってみてくれませんか?
それだけを望みます。