公式であることの責任

少し間が空いてしまいましたが、リプレイに関する考察の続きです。
先日の日記では「昔はこんなリプレイがあった」というご意見をたくさん頂き、勉強になったのですが、今回はあえて、自分が読んだリプレイの中でのみお話をさせていただきます。

なお、今回はakito_lightly様にコメントいただいたサイトも参考にさせていただきました。ありがとうございます。

さて、まず、私が思うリプレイの「効果」について。
リプレイには「公式リプレイ」と「同人リプレイ」という二つに分かれます。
この二つが目指す、また、及ぼす「効果」については、当然のことながら明確に違いがあると思われます。*1

まずは「同人リプレイ」に関して。
ここから既にakito_lightly様とは意見を違えてしまうのですが、同人で出版されるリプレイは「内容として面白ければその他に目標などいらない」と、私は考えます。
何故なら同人とは、同じ趣味を持つ者同士の交流が目的であり、著者と消費者の間に優劣はなく、また、(ローカルルールなどの特殊な環境を除いて)知識は同程度であるという前提で作られるものだからです。
TRPGをまったく知らない初心者が(経験者に勧められるわけでなければ)公式の書籍を飛び越して同人を手に取りたがるとは考えにくいし、好んで同人を買おうとする人がそのジャンルに対して無知であるということもまずないでしょう。
そして、アマチュアであるからには、公式の書籍をわざわざ解説してやる「義務」がありません。
いちいち注釈をつけたりすれば文章は乱れてページも圧迫するし、詳しく書き過ぎれば著作権にも触れます。
クライマックスでの戦闘中、戦いながら言葉を交わすシーンで会話が盛り上がりを見せる中「〜の効果で〜が〜する。そして〜」とかゲーム用語が並んだら興ざめもいいところだと思いませんか?
それなら、「同じ趣味を持つ人に、自分がどんな風に遊んで、どんな風に楽しんでいる」というメッセージにもっと力を注ぐべきではないでしょうか。

しかし、「公式リプレイ」では「面白ければいい」というわけにはいきません。
私が「公式」に求める効果は「そのゲームをやりたいと思わせること」「そのゲームのプレイの見本となること」の二点です。
どんなリプレイであれば「やりたいと思わせる」かといえば、「読んでて面白いと思う」という一点だと思います。
面白いと思うけどプレイしたいとは思わないゲームは合っても、面白いと思わないけどプレイはしてみたいゲームなんて(よっぽど読んだ人がひねくれていない限り)ないのではないでしょうか。
どんな部分を面白いと感じるか、感じさせるかは個人の主観によるので、ここで論じてもしょうがないと思うので割愛します。

問題は、「そのゲームのプレイの見本となること」です。
業界として未成熟であるということも影響をしているのかと思いますが、この点において、少なくとも最近私が読んだ(ここ二年間のリプレイで)真っ当な効果をあげているリプレイは見当たりません。
というのも、どのリプレイを読んでも大抵一人は(酷い時はほぼ全員が)実際にそんなプレイをされたら困るというキャラクターが存在しているのです。
コンベンションなどに行っても話題になるのですが、いわゆる「劣化天プレイ」、おかしな事をして笑い転げてればゲーム的には妨害でしかなくても問題ないと思い込んだ人たちが時たま目に付きます。(自分がリプレイを勧めてTRPGを始めさせた初心者もそういうタイプが多かった)
それも、本来はイレギュラーであるはずの田中天氏のプレイングが悪く目立ちすぎている所為でしょう。
私が尊敬している小林正親先生も、「PLの優勢が気に入らなくてこっそりデータを書き換える」なんて反則行為を平然とリプレイに載せています。
はっきり言って、それを見本にするプレイヤーがいると言う、プロ意識と言うものが足りなさ過ぎると思います。
読み物としての面白さを優先しすぎた、同人と同レベルの思考しかしていないのではないかと。

…結果的には「プロとアマが違うのは当然」と言いながら、「プロがアマ並みの活動しか出来ていない」という論になってしまう辺り、酷く寂しく感じますね。

*1:当然という言葉に反感を抱かれるかもしれませんが、プロとアマが創作をするに辺り、(良くも悪くも)同様の意識、目標を有しているという事がまず、考えにくい為。プロを目指すアマにしてもそれは同様。